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研究開発をアシストする量子化学計算

量子化学計算とは

 量子化学計算とは、原子や分子の性質を量子力学の原理に基づいた計算から予測する技術です。量子化学計算は、有望な化合物の構造や物質の反応経路を、実験をすることなく解明できる手段として、化学や創薬、製造などのものづくりの分野で、より良い材料を・より効率良く開発するために活用することが期待されています。また、量子化学計算を使って、人類がいまだに解明できていない自然現象を明らかにすることで、食料・環境問題などの地球規模の課題の解決に繋がる可能性があります。
 大学や企業、研究機関などでは、すでに一般のコンピュータを用いた量子化学計算が広く利用されています。また、一般のコンピュータでは解けないような非常に大きな分子の計算や高精度な計算が要求される問題に対しては、スーパーコンピュータ(スパコン)や量子コンピュータを用いる研究が行われており、今後も発展が期待される分野です。

要素技術

 原子や分子の性質は、シュレディンガー方程式を解くことで、理論上はシミュレートできると言われています。

シュレディンガー方程式

シュレディンガー方程式自体はとてもシンプルな式で表されますが、実際の分子は自身の持つ電子同士がお互いに力を及ぼし合う複雑な系であり、シュレディンガー方程式を厳密に適用すると、手に負えないほど難しい計算となってしまいます。
 そこで、シュレディンガー方程式を計算可能なレベルまで近似して解く方法が考案されました。まずは、電子は平均的なポテンシャルの中を運動するという平均場近似を用い、電子相関を考慮しないハートリー・フォック(HF)法です。ここに電子相関の影響を加えた手法であるpost-HF法として、励起配置を電子相関として考慮した配置間相互作用(CI)法、摂動法、結合クラスター(CC)法があります。特に、CI法の中でも、全ての可能な励起配置を考慮する場合をFull-CI法と言い、厳密解が得られるとされています。一方、現在の量子化学計算の主流となっている密度汎関数(DFT)法は、電子を1つ1つ取り扱うのではなく電子密度の形で取り扱うことにより電子相関を考慮しています。

シュレディンガー方程式の近似イメージ

 また、昨今では量子コンピュータのキラーアプリケーションとして量子化学計算が注目されており、そのため、量子化学計算を量子コンピュータ上で実行するための計算手法(量子アルゴリズム)開発が盛んに行われています。
(※量子コンピュータについては、こちらのnoteをご覧ください。)
 現在、開発されている量子化学計算にも転用可能な量子アルゴリズムとして、変分量子固有値ソルバー(VQE)と量子位相推定法の2つがあります。VQEは、NISQと呼ばれる数百量子ビット程度の誤り訂正機能が無い中規模の量子コンピュータで実行できるアルゴリズムで、理想的な近似解を算出します。量子位相推定法は今後実用化が期待される誤り訂正つきの大規模な量子コンピュータで実行可能なアルゴリズムで、多体系の厳密解を得ることが期待されます。

各計算手法の計算精度と計算コストの関係

量子化学計算への期待と課題

 量子化学計算が実用的なものになることで、研究開発の現場では、高速・高効率な材料探索が可能となり、革新的な材料が見つかる可能性が高まります。また、研究者にとって、実験を行わなくてもパソコンがあればどこでも研究ができるため、働く場所を柔軟に選択することができます。
 しかし、量子化学計算の各計算手法には、計算精度が高くなるほど、計算コストが大きくなるというトレードオフの課題があります。そのため、自身の求める計算精度やその際の計算コストを見極め、どのデバイス(一般のコンピュータ、スパコン、量子コンピュータ)を使用し、どの計算手法を用いるか、適切な選択が求められます。
 大規模な問題を高速・高精度に計算することに優位性が見出されている量子コンピュータですが、現在の量子コンピュータはまだ扱えるビット数が少ないため大規模な問題に適用できず、ノイズが多いため正確な計算結果が得られないなどのハード面の課題があり、実用化に至るまでには少し時間を要する状況となっています。

量子化学計算がつくる未来

 量子化学計算が今後、私たちの生活にどのような変革をもたらすか、未来像の一部を紹介します。

・現在は治療法が見つかっていない病に対して効果的な薬が開発されたり、ケガをした際に人間の身体に適合した素材で治療を行えるようになることで、人々が健康な状態で長生きできるようになる。

・宇宙の過酷な環境(太陽光や放射線、激しい温度変化など)に耐える安全性と廉価性を兼ね備えた新素材でロケットを開発することで、宇宙旅行が容易にできるようになったり、月や火星などの地球から遠く離れた惑星でも、現地の資源から水や酸素を生成する装置を開発することで、地球以外の惑星に住めるようになる。

・光合成のメカニズムを明らかにして二酸化炭素をエネルギーに変えられるようになることで環境問題を解決したり、生物の窒素固定の仕組みを解明して窒素肥料を効率的に生産し食糧供給に貢献することで、地球規模の課題を解決しサステナブルな社会を実現する。

活用事例

 一般のコンピュータやスパコンで動く商用ソフトウェアとして、Gaussianが業界標準として広く利用されています。また、スパコンを用いた量子化学計算では、理化学研究所の”富岳”を用いて、各大学・企業が研究を行っています。量子コンピュータを用いた量子化学計算に関しては、基礎研究が国内外で行われており、アルゴリズムの開発や大規模な計算の実現を目指しています。例えば、2021年に稼働を開始した国内初の商用量子コンピュータ"IBM Quantum System One"を用いて、大学や化学企業が共同でアルゴリズムやソフトウェアの開発を行っています。

トッパンの取り組み

 トッパンはパッケージ、建装材、高機能・エネルギー関連、ディスプレイ関連、半導体関連、セキュア関連の製品を手がけており、その研究開発は「印刷テクノロジー」をコアに新たな事業創出に必要な新規技術に挑戦し、保有技術の幅を広げ深める「基盤研究」、高いオリジナリティや競争優位のある商材とするため、技術に基づく創意工夫を行う「商品開発」、高度な専門技術で研究開発を支援する「技術支援」を行っています。これらの研究・開発を進めるにあたり、様々な取り組みや積極的な情報収集を行っており、量子化学計算も注目している技術の一つです。
 量子コンピュータを用いた量子化学計算への取り組みとして、トッパンでは大阪大学を代表機関とする量子ソフトウェア研究拠点や株式会社QunaSysが運営するQPARCに参加し、量子化学計算の活用に向けた研究を進めています。

有識者コメント

田上英恵
事業開発本部 総合研究所

 日本人第一号のノーベル化学賞受賞者である福井謙一先生によって生み出されたフロンティア軌道論を始めとして、日本は量子化学の分野を牽引してきました。
 計算機や計算プログラムの発達により、以前は困難であった高精度な量子化学計算が、今では十分実用上のものになっています。量子化学計算では、実験によるデータ取得が困難な分子構造や化学反応について計算できるので、実験結果に対して深い考察を加えながら後戻りの少ない材料研究が可能です。また、実際に測定可能な特性データを予め計算すれば、実験の数を減らし、効率的な研究ができるようになります。さらに、近年注目されているマテリアルズ・インフォマティクスや量子コンピュータとの融合により、材料開発の飛躍的なスピードアップが期待されています。このように、量子化学計算は、材料の研究開発において、非常に有用な技術ツールです。
 私たちは、量子化学計算を含む様々な技術を活用した研究開発により、お客さまの豊かなくらしに貢献する製品を生み出すよう、取り組んでまいります。


■編集者

中川理夢
DXデザイン事業部 技術戦略センター
企画・開発本部 量子技術戦略室